実践1

どの言語でも,異常なほど得意とする領域と,まったく無頓着な頷域が存在する。イスイットは氷に対して数多くの表現をもつが、イヌイットはスワヒリ語のmvukiに相当する単語をもっていない.mvukiとはおおざっぱにいえば衣服を脱ぎ拾てることを意味するが,北極圏では自殺的とまではいわないまでも、なじみのない概念である.英語には対応する単語をただの1語ももたない普通的な概念が数多く存在する。例えぼ、日本人は簡素化された美を表す「わび」というようなことばや控えめな気品を表す「しぶい」というようなことばを用いて自らを表現できる.

実践2


脳はコンピュータのようなもの,体は万能の道具のようなものであると思われることが多い。しかし,もっと協同的なことが行われている一つまり人間は脳で考えるだけでなく,体でも考えているということを示唆する一連の新たな研究が増えてきている。最近の一連の研究によれば,子どもは考えているときに手を使うように言われた場合のほうが,数学の問題がよく解けるということがわかった舞台俳優は体を動かしているときのほうが台詞をよく覚えられるらしいという最近の研究もあった。また,昨年発表されたある研究では,論理的な問題を解決しようと(じっくり)考えている間,ある一定のやり方で眼球を動かすように言われた人々のグループがその問題を解決する可能性は、そうするように言われていない人々のグループの2倍に(まで)なった。


実践3

(はめることによって)思いのままに[自由自在に]透明人間になることができる指輪をもっているとしよう.あなたは何をするだろうか。何をしないだろうか。例えばプライバシー,秘密,自由,尊厳,生活といったほかの人の財産を尊重し続けるだろうか。だれもあなたの代わりに答えてはくれない。この問いはあなただけに関わることだが,あなたのすべてに関わるものである。ふだんはしないのに,自分が見えなくなったらやってしまうことは何でも,倫理(に根ざしている)というよりはむしろ,警戒心や偽善に根ざしている(からである).これに対して,透明人間になっても,私利私欲のためではなく義務感から自分に求めることや禁ずることだけが,厳密な意味で道徳的なことであるあなたの魂は独自の基準をもっているのだ.